宣戦布告 3

「いつもの部屋を頼む」
コトンと、受付けで宿帳とにらめっこしていたコノエの目の前に置かれた数枚の硬貨。
コノエが見上げると、そこには見なれた白銀の闘牙の姿があった。
「ライ…」
あれから、ライはいつも以上に頻繁に宿を利用するようになった。
バルドは出入り禁止にしたいくらいだと言っていたが、ライも一応は客。(しかも常連)
結局いつも通りに戻っていた。
変わったことといえば…。
「はい、鍵」
「すまんな」
コノエが部屋の鍵を渡すとライはそれを受け取る。
すると、その手はそのままに、もう片方の手を伸ばしてきた。
「…!?」
コノエの身体が一瞬強張る。しかしライは、コノエの頭を優しく撫でただけだった。
「少しはあの老いぼれにも働くように言っておけ」
「…?」
コノエはきょとんとした顔で撫でられた頭をさする。受付でずっと宿帳と格闘していた自分を労ってくれたらしい。
意図を理解し、コノエが苦笑すると、ライは小さな箱をコノエに差し出してきた。
「なに、これ?」
「カディルだ。今回の依頼で行った先で売っていた。このあたりではあまりないシロップを使った珍しいものらしい」
「カディル…!」
ぱっとコノエの顔が明るくなる。カディルはコノエの大好物だ。
しかも、このあたりでは手に入らない、珍しいもの。
嬉しそうに、鉤尻尾が揺れる。
「いいのか?もらっても…」
「どのみち俺は食わん。返されても無駄になるだけだ。好きにしろ」
「!」
今までと変わったこと。
ライがコノエに優しく触れるようになったこと。
それと、時々こうやってお土産を持ってきてくれるようになったこと。
ライがフンと鼻で笑う。
「菓子1つで喜ぶあたりが、まだまだ子猫だな」
「うるさいっ」
…尊大な態度は相変わらずだったが。





コノエは上機嫌で食堂へと向かう。
ライからもらった箱を開けてみると、形の良いカディルが1つ1つ丁寧に並べられていた。カディルの上には見なれない金色の粉のようなものが乗せられている。トッピングなのだろうか。甘い香りが漂い、コノエの耳がピクピクと揺れる。
その時、バルドが厨房から出てきた。
「なんだぁ?そりゃ」
「あ、ライがくれたんだ。…食べてもいいか?」
そう言ってバルドに箱を差し出す。ライが何かをくれた時はバルドに報告する決まりが2匹にあった。
バルドがカディルを1つつまみ、口に放り込む。
甘過ぎず、安っぽい蜜特有の後味の悪さもない。そして上に乗っているのは金箔。ただの菓子に使うものではない。
コノエにはわからないだろうが、高級に分類される菓子だった。
(ったく、抜け目のない…)
コノエは物欲が薄く、なおかつ高価なものに興味がない。高価な金品を渡した所で突っ返されるのがオチだろう。
それがわかっているから、ライはあえてコノエの好物であるクィムやカディル、そして日常で使う物などをに持ってきていた。今、コノエが身に着けている前掛けは前回ライが持ってきたものだ。いくつあっても困らないから、とコノエは素直に受け取ってしまったのだが…。
物欲がない。つまりは目利きができないコノエ。
この前掛けが高級な生地でできているものだとか、カディルにもランクがあるということに気付いていない。
バルドはそんなコノエに返してこいとも言えず、いつも了承することしかできないでいる。
「バルド?」
考え事をしているバルドの顔を、愛らしいつがいの猫が覗き込む。
瞳が期待に満ちていて、はやく食べたいと訴えてきている。
「まあ、酒も使ってないみたいだし、大丈夫だろう」
「!」
許しが出て、コノエがカディルを1つ口に入れた。
「美味しい…。後でライにお礼を言わないとな」
今までに食べたことのない蜜の味の菓子に、感動するコノエ。
あの日以来、ライはコノエを撫でたり、こうやって贈り物をすることはあっても、何かを仕掛けてくるということはなかった。
最初のうちはライの姿を見ただけで警戒していたコノエだったが、今ではすっかり緊張も解けてしまっている。
コノエが嫌がらない以上、ライに文句をつけることもできない。
(ああ、まったく…)
やっかいな猫に狙われたものだ。このまま何もしてこないはずがないのに。
平和そうにカディルを頬張る己のつがいを眺めながら、バルドは溜息をついた。






2階の部屋のドアを、コンコンと軽くノックをする。
「ライ、いるか?」
コノエが鍵のかかっていなかったドアをそっと開けて中を見れば、ライは寝台に座って愛剣を布で磨いていた。
白く雄々しい尻尾がゆらゆらと揺れる。
入っていい、と言っているらしい。コノエは後ろ手にドアを閉めるとライに歩み寄り、向側の寝台に腰かけた。
「あのカディル、美味しかった。ありがとな」
鉤尻尾がパタパタと寝台のシーツを叩く。ライは微かに頬を緩めると、磨いていた剣を鞘に収めた。
「そんなに気に入ったのなら、また買ってきてやる」
ライの申し出に、コノエの耳がぴんと立つ。
しかし、すぐにへにょんと垂れてしまった。
「でも、そんなにもらってばっかりは…」
「気にするな」
「するに決まってるだろ。金額教えてくれれば、ちゃんと払うから」
コノエは義理堅い猫だ。さすがに一方的に物を貰い続ける事に、思う所があるらしい。
ライが溜息をつく。金額を教えろなどと言われて素直に教えれば、この猫は顔面蒼白になるに違いない。バルドと共に宿を営むようになってから、金銭感覚はだいぶ身についたようだし。…物を見る目は別として。
ライが寝台から立ち上がり、コノエに近づく。
近づいても逃げなくなった事に、ライは心の中で笑む。
「これで十分だ」
ライが指先でコノエの頬に触れる。コノエがライを見上げると、ライはコノエの唇の端をぺろりと嘗めた。
「……っ!」
コノエの瞳が驚きに見開かれる。視界には、すぐ近くにあるライの顔。その形の良い唇がニヤリと笑う。
(ま、まずい…!)
ライが自分をどんな目で見ているか、すっかり失念していた。
コノエが慌てて部屋を出るために立ち上がろうとするが、ライの手が肩を掴んだせいで、浮きかけた腰が再度寝台に沈んだ。
「ラ、ライ…」
怯えたような、困惑したような瞳でライを見上げる。
また以前のようなことが起きるのかと思ったら、ライは意外にもあっさり手を離した。
「ついていた」
「え?」
ライの指先が、先ほど嘗めた口先を拭う。
「蜜が口についていたから、拭っただけだ」
「………………」
先ほど食べたカディルの蜜が、口についていた…?
ならライは、変な意味でなく、ただの親切であんなことしたというのだろうか。
「…う〜…」
以前、アサトと食事中に、顔についたソースを舐められたことがある。
あれと同じなのか、はたまた…。
コノエはわけがわからなくなって、口を抑えながら唸った。
「ここにもついているぞ」
「え?」
口元に当てていた手を退かされたと思ったら、ライはあろうことか、コノエの鎖骨付近に顔を近づけてきた。
「え、あ、こんな所に付いてるわけないだろ!!」
「いや付いている。どんな食べ方をしたんだ、馬鹿猫」
「えええー!?」
ざり…、と舐められる感覚に、コノエの身体が竦む。
「や、やめろって…!」
「先程、貰ってばかりは嫌だと言ったな。俺と一緒に食う分には問題ないだろう?」
(食べ方があきらかにおかしい!!)
じたばたとコノエが暴れる。
もう、大声でバルドを呼ぶしかない。
そう思い、すうっと息を吸い込む。
「…!」
声を出す直前、ライが何かに気付き、手を離した。
自分が声を出そうとしたのがわかったのだろうか。
しかし、ライの視線は窓の外に行っていた。
何事かと、ライの視線の先を辿ってみると、しゅんと黒い影が窓の上から下がってきた。
「コノエっ」
嬉しそうに姿を現したのは、アサトだった。
「アサト!」
慣れた動きで黒猫が窓から部屋へ入ってくる。アサトは一瞬身体をぴたりと止めライを睨んだが、すぐにコノエへ向き直ると、嬉しそうにその肩に額を押し付けた。
「コノエ、久しぶりだ。会いたかった」
盛大に喉を鳴らすアサトに、コノエは笑いながら、自らもアサトの肩に額を押し付ける。
「俺も会いたかったよ。…それに、助かった…」
「?」
おそらくライはアサトの気配を感じとり、手を離したのだろう。
すっかり油断していた。
コノエがライを睨むと、アサトがくんくんと鼻を鳴らし、先程ライに舐められた鎖骨付近へ顔を近付ける。
「アサト…?」
「コノエ、甘い匂いがする」
「え…」
何がと思う前に、ざり、と先程ライがしてきたように、アサトが肌を嘗めてきた。
「ア、アサト!?」
驚いてアサトから身体を離すと、アサトはぺろりと自分の唇を嘗めた。
「蜜の味がする」
「へ?」
カディルの蜜。
ということは、本当にここにまで蜜が散っていたということなのか。
コノエがライを見ると、呆れたような視線が返ってきた。
「!」
コノエの顔が赤くなる。自分の勘違いだったとしたら、恥ずかしすぎる。
そして親切で拭おうとしてくれたライを疑ったりして、申し訳ない気持になった。
「お、俺、下を手伝ってくる…!」
コノエはいたたまれなくなり、ライの部屋から飛び出した。自分も手伝うと、アサトもその後に続く。
部屋に残されたのは、ライ1匹。
慌ただしく去っていった猫2匹に呆れた溜息をつくと、寝台に座り直した。
指に残っているものに気付き、嘗めとる。甘い蜜の味が口に広がった。
コノエの鎖骨部分に蜜がついていたというのは嘘ではない。
ただし、最初から付いていたとも言っていない。
最初にコノエの頬に触れた時、そこに蜜が付いていた。ライはそれを指で拭い、コノエの首元に付けたのだ。
アサトが来るのを感じとり、すぐに手を離したのは、見られると面倒なことになりかねないからだ。
あの黒猫は、コノエがバルドを想っているのを知っているからこそ、コノエの為に身を退いている。しかしライがコノエを奪おうとしているのを知ったら最後、ライに奪わせまいと賛牙争奪戦に参戦してくるに違いない。コノエはある意味バルドに対してよりもアサトに気を許している部分がある。なかなかに手強い相手だ。
実際に自分に蜜が付いているのを知ったコノエは、再度芽生えかけた警戒心を解いただろう。まだまだチャンスはある。

外を見れば、大きなシーツを一生懸命干している、想い猫の姿。
次はどんな手を使うか。
ライは珍しく、喉を鳴らして笑った。